マウント・アブー

OSHO 講話

”瞑想の道”
“The Path Of Meditation”第一章より抜粋
 
■OSHOがインドのマウント・アブーで三日間の瞑想キャンプを開催した時の講話です

 最初にまず、私はあなたたちを歓迎したい。それはあなたたちが神性への憧れを持っているからだ。あなたたちが通常の生活から探求者の生へと高まりたいと望んでおり、世俗の欲望に反して、真理への渇きを持っているからだ。真理への渇きを感じたことのある人びとは幸運だ。生まれてくる無数の人びとの中で、ほんのわずかの人びとしか真理への憧れを感じることはない。真理を知ることはおおいなる祝福だ――だがそれに対する憧れを持つことも同じほどにおおいなる祝福だ。たとえそれを達成することがなくても、それは構わない。だが、その渇きをまったく体験したことがないというのはおおいなる不幸だろう。私は、真理を知ることが重要なのではないと言いたい。重要なのは、それに対する憧れを持つということ、それを体験することに向かってあらゆる努力をするということ、そのために懸命に努力をしてそれを切望するということ、この目的に向かって断固としてできるかぎりのことをすることだ。

 それにもかかわらずそれを達成しないのなら、それは問題ではない。だがこの渇きをまったく体験したことがないとしたら――それはおおいなる悲劇だろう。私はまた、真理を知ることは真理に対する真摯な切望を持つことほど重要ではないとも言いたい。その切望自体が喜びなのだ。欲望が意味のないものに対するものだったら、たとえそれを手に入れたとしてもそこに喜びはないだろう。だが意味のあるもの、究極のものを求めて手に入れられなかったのなら、たとえそれが手に入らなかったとしても、あなたは喜びで満たされるだろう。くり返そう。もし小さなことを欲望してそれを手に入れたとしても、究極のものに憧れて手に入れられなかったときほどには幸せにはなれないだろうということだ……。手に入らなくてもなお喜びと幸福に満たされるだろう。

 神性は、それを探求するあなたの強烈さに応じてあなたの中に誕生する。それは外側から何か高位の魂とかエネルギーがあなたの存在の中に入ってくるということではない。その種はすでにあなたの中に存在しており、それが成長し始めるのだ。だがそれが成長するのは、あなたが自分の渇きに何らかの温かみを、自分の渇きに何らかの熱と何らかの火を注ぐことができたときに限る。あなたがその神性に憧れれば憧れるほど、それだけあなたのハートの中に隠されているその種が育ち、芽を出し、神性を帯び、そしてそれが開花し、満開になる可能性が大きくなる。もしあなたが神性を体験することを考えたことがあるなら、もしあなたが沈黙に対する、真理に対する欲望を体験したことがあるなら、あなたの中のその種が発芽を熱望していることを知るといい。

 それはあなたの中に隠されているある渇きが、満たされたいと求めているということだ。ひじょうに意味のある苦闘が自分の中で起きているのだと理解してみなさい。あなたはその苦闘を助け、それを支援する必要がある。あなたがそれを支援しなければならないのは、種は発芽しただけでは充分ではないからだ。より滋養に満ちた環境もまた必要だ。また発芽したからといって、必ず花開くというものではない。そのためには、もっと多くのことが必要だ。地面に蒔かれたたくさんの種の中で、成長して樹木になるのはほんのわずかにすぎない。この可能性はそれらのすべてにある。それらはすべて芽を出し、成長して樹となり、今度はそれぞれにもっと多くの種を生むことができるのだ。

 ひとつの小さな種が森全体を生み出す力を、その潜在能力を持っている。それには全地上を樹木で覆うことができる潜在能力がある。だが、この途方もない力と潜在性を持っている種が破壊され、そこから何ひとつ出てこないという可能性もある。そしてこれは一粒の種子の能力にすぎない――人間にはこれよりずっと多くのことが可能だ。一粒の種が生み出すことができるものはそれほどにも広大だ……。小さな石を原子爆発を起こすために使えたら……、途方もないエネルギーをそこから発生させることができる。誰かが自分の存在の中で、その意識の中でこの融合を、この開花を、この爆発を体験したら、そのエネルギーと光こそが神性の体験だ。私たちはその神性を外側から体験することはない。意識のこの爆発、成長、私たちの存在の開花によって生み出すこのエネルギー、そのエネルギーこそが神性だ。

 そしてあなたたちにはこのエネルギーに対する渇きがある。私があなたたちを歓迎するのはそのためだ。だがあなたがここに来たというだけでは、必ずしもあなたにこの渇きがあるということにはならない。あなたが単なる見物人としてここに来ているということはありうることだ。あなたがあるぼんやりとした好奇心でここにいるということはありうる――だが表面的な好奇心を通じては扉は開かれえないし、単なる見物人に秘密が明かされることもない。生の中では、人は受け取るものすべてに対して支払いをしなければならない、多くのものを犠牲にしなければならない。好奇心には何の価値もない。好奇心があなたたちをどこにも連れていかないのはそのためだ。好奇心はあなたたちが瞑想に入る役には立たない。

 必要なのは自由に対する根本的な渇きであり、好奇心ではない。昨夜私はある人にこう言った。もしあなたがオアシスの近くにいてしかも渇きで死にそうだったら、渇きがあまり激しくて、もし水が手に入らなかったらじきに自分は死ぬと感じるほどの状態だったら、そしてそのとき誰かがあなたに水をくれて、この水を飲んだらその後であなたは死ぬと――つまりその水の価格はあなたの命だと――告げたら、あなたは喜んでその条件を受け入れるだろうと言った。どうせ死ぬのだ、渇きを癒してから死んで何が悪い?もしあなたが自分の中にこの強烈な憧れと希望を持っていたら、その途方もない圧力の下であなたの中の種子は弾け、成長し始める。種はひとりでに芽を出すことはない、それには一定の条件が必要だ。その堅い外皮が弾けて中の柔らかい種が成長するためには大きな圧力、たくさんの温かみが必要だ。私たちはそれぞれこの堅い覆いを持っており、そこから出たいと望むのなら、単なる好奇心では駄目だ。

 だからこれを覚えておきなさい。あなたが単なる好奇心でここにいるのなら、あなたはその好奇心とともにここを去るだろうし、あなたを助ける何事もなされえないということだ。またもしあなたが見物人としてここにいるのなら、あなたはひとりでここを立ち去ることになり、あなたのためには何もなされえない。だから始めるためには、あなたが自分の中に真の求道者を探し求めることが必要だ。そしてそれについては明確でありなさい。自分は本当に何かを探求しているのか、と。そしてもしあなたが本気なら、それを見つける方法はある。 

 あるとき仏陀が村を訪れていた。ある人が彼に尋ねた。「毎日あなたは、誰でも光明を得ることができるとおっしゃっています。それならなぜ誰も光明を得ないのですか?」「友よ」と仏陀は応えた。「こうしてみなさい。夕方村のみんなのリストを作って、名前の隣りにその人の欲望を書いてごらん」男は村に行ってみんなに尋ねた。それは数人の小さな村で、彼らは自分の答を彼に与えた。夕方彼は戻ってきて仏陀にそのリストを渡した。仏陀は「その人たちの何人が光明を求めていますか?」と尋ねた。男が驚いたのは、ひとりとして光明を求めていると書いた者はいなかったからだ。すると仏陀は「私は誰もが光明を得る能力があると言っている、誰もが光明を求めているとは言っていない」と言った。 

 誰もが光明を得ることができるということは、誰もが光明を求めているということとはひじょうに違うことだ。もしあなたがそれを求めているのなら、それは可能だと考えていい。もしあなたの探求が真理に対するものなら、地上にあなたを押し止めることができる力は存在しない。だがもしあなたが真理に憧れていないのなら、それをあなたに与えられる力も存在しない。だからまずあなたの渇きが本物であるかどうかを尋ねる必要がある。もし本物なら、その道が開かれていることを確信していい。もしそうでないなら、そこに道はない――あなたの渇きが、真理へのあなたの道になる。楽天的な感じを育てる導入の手段として私が言っておきたい二番目のことは、あなたはしばしば何かに対して渇きを持つのだが、自分の欲するものが手に入るとは思っていないということだ。あなたは欲望を持っているのだが、それについて楽天的でない。

 欲望はあるが、見込みがないと思っているのだ。さてもし第一歩が楽天的に踏み出されたら、最後の一歩も楽天的に終わることになる。このことも理解しておくべきことだ。もし最初の一歩がなんの楽天性もなく踏み出されたら、最後の一歩は失望の一歩で終わることになる。もしあなたが最後の一歩が満たされた成功者のものであることを望むのなら、最初の一歩を楽天主義で踏み出すべきだ。この三日間私はこのことを言いつづけている――そして私は生きている間ずっとこれを言いつづけるだろう――あなたはひじょうに楽天的な態度を持つべきだ。意識状態に関するかぎり、多くのことが積極性と消極性のどちらに根づいているかにかかっていることを理解しているだろうか。

 ことを始めるに当たって悲観的であるなら、それはまるで木の枝に腰を下ろしながら同時にその枝を切っているようなものだ。だから楽天的であることが根本的に必要だ。もし誰かが平安を体験したことがあるのなら、誰かが至福を体験したことがあるのなら、自分にもそれが可能なのだという確信を持ちなさい。悲観的であることで自分をおとしめてはいけない。悲観的であることは、自分自身を侮辱することだ。それは自分を真理を体験するに値する人間とは見なさないということだ。そして私はあなたがたに言う、あなたはそれに値し、かつまちがいなくそれを達成するだろうと。試してみてごらん! あなたは生涯を無力感を持って生きてきた。瞑想キャンプのこの三日間は楽天主義のフィーリングを養いなさい。究極が起こるほどに、それがまちがいなく起こるほどに楽天的でありなさい。なぜか? 

 外側の世界では、楽天主義を持って何かにアプローチして、しかも成功しないということはありうる。だが内なる世界では、楽天主義はきわめて有効な手段だ。あなたが全く楽天主義でいっぱいになっていたら、あなたの肉体の全細胞が楽天主義で満たされ、あなたの皮膚の毛穴のすべてが楽天主義で満ち溢れ、すべての呼吸が楽天主義に満ち、あらゆる思考が楽天主義の光を受け、あなたの生命力が楽天主義で脈打ち、あなたの鼓動が楽天主義で満たされる。あなたの全存在が楽天主義で満たされたら、それはあなたの中に究極が起こり得る雰囲気を創り出すことになる。楽天的な態度でいなさい。そしてそれと同時に私は次のことも言っておきたい。何年も体験してみて、私は次のような結論に達した。それは、人間の否定性というものは、何かを達成し始めてもなお自分の否定性のゆえにそれが見えないほどに強くなる可能性があるということだ。

 どこかで読んだ話しだが、ひとりの男がもうひとりに「俺はひどく貧乏だ。俺には何もない」とこぼしていた。すると相手が言った。「もしお前がそんなに貧乏だというなら、できることがある。私はお前の右の目がほしい。それと交換にお前に五千ルピーをやろう。この五千ルピーを取って、お前の右の目を私によこしなさい」すると最初の男が言った。「それは無理だよ。右の目をやるわけにはいかない」そこで相手はこう申し出た。「お前の両目をよこせば、一万ルピーをやろう」再び最初の男が応えた。「一万ルピーだって! しかしやっぱり両目をやるわけにはいかない」その時点で相手はこう申し出た。「もしお私にお前の命をよこすなら、お前に五万ルピーやろう」ここで最初の男は言った。「だがそれは不可能だ! 自分の命をやるわけにはいかないよ」相手は言った。「それなら、お前にはたくさん貴重なものがあるわけだ。一万ルピーでも売ろうとしないふたつの目を持っており、そのうえ命まである――なのにお前は、自分には何もないなどと言っていた!」私が言っているのは、この種の人間とこの種の考え方のことだ。自分が持っているもの、そしてたとえ小さなことであっても瞑想を通じて体験したことを評価しなさい。

 それについて考え、それについて話しなさい。というのは、あなたがそれ以上を体験するかどうかはこの考え方次第だからだ――そしてあなたの楽天主義がより多くを創造する。たえず喋りつづけるのを止める三番目のことは、この瞑想の三日間は、あなたが今日まで生きてきたのと同じやり方では生きないということだ。人間はロボットだ、習慣でいっぱいになっている。自分の習慣の中に閉じ込められているかぎり、新しい瞑想への道はひじょうにむづかしくなる。ゆえに、私はあなたたちに少しの変化を提案する。ひとつの変化は、この三日間はできるだけ話さないようにするということだ。話すということは今世紀の最大の不幸だ! しかもあなたは自分がどれくらい喋っているかすら意識していない。朝から晩まで、眠りに就くまであなたは喋りつづける。他の誰かに話しているか、あるいは話す相手がいなければ自分自身に話す。この三日間は、絶えず喋りつづけるという自分の習慣を止めることを意識しなさい。そしてこれは単なる習慣だ。

 瞑想者にとってはこれは不可欠だ。この三日間は、なるべく話さないでいてほしいし、また話すときはいつもの普通の雑談ではなく、ピュアなものにすべきだ。実際、あなたは毎日何について話しているのか? それには何か価値があるのか? もしそれを話さなかったら、あなたの害になるのか? あなたはただお喋りをしているだけだ。たいした価値はない。それにそれを話さなかったところで、誰かの害になるだろうか? あなたが言うことを聞かなかったことで、他の人たちは何かが失われたと感じるだろうか?この三日間は、他の誰ともあまり話さないということを覚えていなさい。これは途方もなく役に立つ。そしてもし話すのなら、他のことではなく瞑想に関連することにした方がいい。だが、まったく話さなければ、その方がずっといい。できるがぎり沈黙していなさい。自分に沈黙を強いて、言いたいことは書くようにというような厳格なことを言っているのではない。話すのは自由だ、ただ雑談をしないように。

 意識して、必要なときだけ話しなさい。これはふたつの意味であなたの役に立つ。ひとつの利点は、話すことで浪費されるすべてのエネルギーを節約することになる。するとそのエネルギーは、瞑想に使える。そして第二の利点は、それがあなたを他の人たちから切り離し、この時間あなたが独りでいられることだ。私たちはこの山間の地にやって来た。もしここに集まった二百人の人びとがただ互いに話し、お喋りをするだけだったら、それは時間の浪費になるだろう。それではあなたはこれまでと同じ群衆の中にいることになり、沈黙を体験することはできなくなる。山の中にやって来て沈黙を体験するだけでは充分ではない。自分自身を他の人から切り離し、独りになることも必要だ。どうしても必要というとき以外は、人と接触すべきではない。この山の中に自分ひとりだけで、まわりには誰もいないと想像しなさい。自分がここに独りで来て、独りで滞在し、独りでまわりを動いているかのように暮らさなくてはならない。

 木の下に独りで坐りなさい。人びとと集団になって動いてはならない。この三日間は独り離れて暮らしなさい。生の真実は集団の中で暮らすことによってはけっして知られないし、そのように体験することもできない。いかなる意味のある体験も集団の中で起こったことはない。沈黙を味わった者は誰でも、それを完全な孤独の中で、独りで味わったのだ。どこでも好きなところに行って、木の下に坐りなさい。あなたは自分が自然の一部であることを完全に忘れてしまった。あなたはまた自然の側にいた方が、より容易に究極を体験できるということを知らない。他のどこよりも容易だ。だからこの信じられないような三日間を全面的に利用しなさい。孤立し、人と離れて、必要がないかぎり話してはならない。たとえみんなが静かであっても、なお独りでい続けなさい。瞑想者は独りでなければならない。ひじょうにたくさんの人びとがここにいるので、私たち全員が瞑想のために坐ると、あたかも人びとの集団が瞑想しているように見えるかもしれない。

 だが瞑想はすべて個人のものであり、集団が瞑想をすることはありえない。あなたはここで大きな集団の中で坐ってはいるが、自分自身の中に入っていくと、あなたたち全員が独りを感じることになる。目を閉じれば自分が独りであることが感じられ、沈黙すればもはや集団はいなくなる。ここには二百人もの人がいるだろうが、一人ひとりは自分だけでここにおり、他の百九十九人の瞑想者とは一緒にいない。瞑想は集団的に行うことはできない。すべての祈り、すべての瞑想は個人のものであり、プライベートなものだ。ここには独りでいて、ここを去るときも独りで去りなさい。そして大部分の時間を沈黙で過ごしなさい。話してはいけない。しかしただ話すのを止めるだけでは充分ではない。あなたの内側で継続している絶えざるお喋りを停止する意識的な努力もする必要があるだろう。あなたは自分自身に語りかけ、自分自身に答えている――自分を静かにさせ、それも止めなさい。

 もしこの内なるお喋りを停止するのがむづかしかったら、断固としてこの騒音を止めるようにと自分に告げなさい。その騒音が好きではないと自分に告げなさい。あなたの内なる自己に話しなさい。瞑想者として、自分自身に提案を与えることは重要だ。ときどきそれを試みなさい。どこかに独りで坐り、自分のマインドにお喋りを止めるように告げ、それが好きではないとマインドに告げなさい。するとしばらくの間、自分の内なるお喋りが停止するのに気づいて、あなたは驚くだろう。この三日間は自分は話さないつもりだと、自分自身に提案しなさい。三日の内にはあなたはそのちがいに気づくだろう……、一歩一歩、少しずつお喋りは少なくなっているだろう。自分の問題に注意を払わない第四点。あなたは何か不満を、何か問題を抱えているかもしれない――そういうものにはまったく注意を払わないことだ。小さな問題とか困難を経験していても、それに注意を払ってはいけない。私たちは娯楽のためにここにいるわけではない。最近、私は中国の尼僧の話しを読んだ。彼女がほんの数軒しかない村にたどり着いたところで、あたりが暗くなり始めた。

 彼女はずっとひとりだったが、その何軒かの家の前で「家の軒下で休ませてください」と村人に頼んだ。彼女は彼らにとっては見知らぬ旅人で、そのうえ宗教もちがっていたので、村人たちは家の戸を閉めた。次の村はずっと離れており、すでに夜も更け彼女はひとりだった。そこで彼女は野原でその夜を過ごさねばならず、桜の木の下で眠った。真夜中、彼女は目が覚めた――あまりにも寒くて、眠ることができなかった。上を見ると満開の桜の花が見えた。桜は花で覆われていた。月は昇り、月の光が実に美しかった。彼女はこの上もない喜びの瞬間を体験した。朝になって彼女は村に戻り、一夜の宿りを断ったすべての人たちにお礼を言った。「何のお礼です?」と彼らが尋ねたとき、彼女はこう言った。「あなたの愛への、昨夜私の前に戸を閉めてくださった慈悲とご親切へのお礼です。おかげで、私は信じられない喜びの瞬間を体験することができました。私は満開の桜の花を見、輝く月を見、これまで一度も見たことがなかったあるものを見ました。もしあなたが宿を貸してくださっていたら、私はあれを見ることはなかったでしょう。そのとき初めてあなたのご親切が、あなたが私の前に家の戸を閉めてくださった理由が分かったのです」これがひとつの物の見方だ。

 その夜どの家からも追い払われて、一晩中怒りを感じながら過ごすこともできる。あまりにも憎しみでいっぱいになり、その人たちに対する怒りで溢れ、感謝を感じることなど言うに及ばず、桜の花が満開であったことにも気づかず、月が昇るのにも気づかなかったかもしれない。その何ひとつ体験しなかったかもしれない。生に関わるもうひとつのやり方がある――それは生の中のあらゆることに対する感謝に満ちていることだ。だからこの三日間は、あらゆるものに対して感謝することを、覚えていなければならない。自分が受け取るものに感謝し、自分が受け取っていないものについては気にしないことだ。これこそが感謝の基礎だ。この基礎にもとづいて、あなたの中に暢気と素朴さが生まれるのだ。瞑想を手助けするテクニック要するに、この三日間は絶えず自分の内側に入ることを試み、瞑想し、沈黙の中に入る努力をするようにと言いたい。この旅では、非常に固い決心が必要だ。すべての思考過程が起きている意識的なマインドは小さな部分に過ぎない。残りのマインドはもっと深い。もしマインドを十の部分に分割したら、意識的マインドはひとつの部分に過ぎず、他の九つの部分は無意識のマインドだ。

 私たちの思考や推論はこのひとつの部分でしか起こっておらず、脳の残りはこれに気づいていない。脳の残りはこれを感知していない。私たちが瞑想し、サマーディに、究極の至福に入っていくという意識的決断をしても、私たちの大脳の大部分はこの決定を知らない。この無意識の部分がこの決定について私たちを応援してくれない。だがもしこの支援を受けなかったら、私たちは成功できない。その支援を受けるために、断固たる意識的な努力が必要なのだ。その意識的努力の仕方をこれから説明しよう。目覚めるときには、決意とともに目覚めなさい。夜就寝するとき、ベッドの中で横になるときは、五分間自分の決意に思いを巡らし、眠りに入りながらそれを心の内で復唱しなさい。これから述べるエクササイズを決意を固めるためのものとして説明したい。そうすればあなたたちはこれをここだけでなく、普段の生活の中でも実行するだろう。説明したように、この決心はあなたのマインド全体が、意識的および無意識的マインドが「私は静かになる、私は断固として瞑想を体験する」と決断するためのものだ。ゴータマ・ブッダが光明を達成した夜、彼は菩提樹の下に坐っていたのだが、「私は光明を得るまでこの場所から立つまい」と言った。あなたたちは「しかしそれと何の関係があるんだろう?

 立ち上がらないことが光明を得ることにどう役に立つというのだ?」と思うかもしれない。だがその決意「私は立ち上がるまい……」という決意が体中に広がり――実際に彼は光明を得るまで立ち上がらなかったのだ! 驚くべきことに、その夜彼は光明を得た。彼は六年というもの努力してきたが、一度もそれほどの強烈さを持ったことはなかった。私はあなたに、あなたの決意を強烈にする小さなエクササイズを与える。私たちはこのエクササイズを、ここでと夜寝る前に行う。もし完全に息を吐き出してから息を吸い込むことを止めたら、何が起こるだろうか? もし私が完全に息を吐き出してから鼻をつまんで息を吸い込まなかったら、何が起こるか? すぐにも私の全存在は息を吸い込もうと苦闘する。私の肉体のあらゆる毛穴と無数の細胞が、空気を求めて悲鳴をあげないだろうか? 私が長く息を止める努力をすればするほど、それだけ呼吸への切望は私の無意識のマインドに深く広がることになる。息を長く止めれば止めるほど、それだけ私の存在の最奥の部分が空気を求めようとする。そしてもし私が最後の瞬間まで息を止めたら、私の全存在が空気を要求するだろう。

 もはやそれは単なる欲望ではない。一番上の層だけが影響を受けるのではない。もはやそれは生きるか死ぬかの問題だ。今やより深い層も、下の方の層も多くの空気を要求しようとする。あなたの全身が空気を求めて喘ぐに到るその瞬間に、あなたは心の中で「私は瞑想を体験するつもりだ」と復唱しなさい。あなたの命が空気を求めるその瞬間に、この思考を復唱するのだ。「私は沈黙の状態に入っていく。これは私の決断だ。私は瞑想を体験する」と。その状態で、あなたのマインドがこの思考を復唱すべきだ。あなたの肉体は空気を求め、あなたのマインドがこの思考をくり返す。空気に対する要求が強いほど、あなたの決断はそれだけ深く内側に入っていく。そして全存在が苦悶しながらあなたがこの言葉を復唱したら、あなたの決断の強さは何倍にも増大する。このようにして、それはあなたの無意識のマインドに到達する。毎日その日の瞑想に入る前にこの決意を実行し、毎晩眠りに入る前にそれをやりなさい。この言葉を復唱してから眠りに入りなさい。眠りに入るとき、その瞬間にもあなたのマインドの中で絶えずそれが鳴り響いているようにしなさい。

 「私は瞑想を体験する。これが私の決意だ。私は沈黙の中に入る」と。この決意があなたのマインドの中で鳴りつづけ、自分がいつ眠りに落ちたのかにすら気づかないようにしたらいい。眠りの中では意識的なマインドは無力になり、無意識のマインドへの扉が開く。意識的マインドが不活発なとき、あなたのマインドがこの考えを何度も何度も繰り返したら、それは潜在意識のマインドに入っていくことができる。するとやがて重大な変化に気づくだろう――この三日間ですらそれに気づくことだろう。私たちは今晩この場所を離れる前にその実験を開始する。あなたはそれを五回やる。すなわち、五回息を吸い込み、そして五回息を吐き出し、五回内側でその思考をくり返す。もし心臓の問題や他の問題がある人がいたら、あまり強烈にやらずにソフトにやりなさい。なるべく優しくやって、気分が悪くならないようにしなさい。私は体験する意志について話した。あなたはこの三日間毎晩眠る前にそれを実行しなくてはならない。ベッドの上に横になって眠りに入っていく間、この言葉を復唱しなさい。あなたが念入りにこのプロセスに従い、あなたの声が無意識に届いたら、結果は容易に誘導でき、まちがえようはない。


ヒンディー語原本”Dhyan Sutra”より抜粋”The Path Of Meditation”第一章より抜粋

(OSHO Times International日本版掲載/発行Osho Japan) copyright 2003 OSHO International Foundation