サニヤシンの安全

OSHO 講話

” サニヤシンの安全 “
The Sannyasin’s Security

OSHO ニルヴァーナ・ウパニシャッドを題材としたヒンディー語講話
“Behind A Thousand Names”より抜粋

 いかなる状況にあっても決意を保つこと、それがサニヤシンにとっての安全、彼のただ一枚の衣服になる。人生には困難が付きまとう――それはますます大きなものになり、世間的な人は自分を守ろうとあらゆる手を尽くす。彼は金庫を、銀行預金を、家を、友人を、親戚や知人を、いろいろな種類の安全を手に入れようとする。

 サニヤシンはこういったものをなにひとつ手に入れようとはしない。彼はなにものも所有しない。自分の内なる決意を除けば、彼にはほかにいかなる保護もない。困難が生じたとき、世間的な人は外面的な手だてでそれに応じようとするが、サニヤシンには自分の内側の意志、自分の内なる力よりほかにはない。なにか困難が生じると、彼は自分の内なる資源に拠り所を求める。ほかには方法がない。サニヤシンはひとりで生きる者だからだ。

 興味深いことに、外側の困難に対処するのに内側の決意を使いつづけていると、あなたはだんだんと強くなっていく。やがて困難が困難ではなくなり、ごく単純な物事になる日がやって来る。

 あらゆるものは関係しあっている。あなたがまるで柱のように決意を固め、不動のものになると、外側の困難はもはや影響を及ぼすことができなくなる。このようなことから、もうひとつの興味深いことが起こってくる。世間的な人は困難から自分を守るために手だてを講じつづけるが、そうすると彼の内なる強さが失われていくので、ますます困難は大きなものになってゆく。彼はいっそう忍耐力がなくなっていく。けっして日に当たらず、いつも日陰に隠れていたら、だんだんと太陽の熱さに耐える力が失われていき、ちょっと日に当たっただけでも調子がおかしくなってしまう。だが、かんかん照りの下で穴を掘っている人には日陰で休んでいる暇がないが、たとえその仕事を何時間も続けたとしても、その暑さで病気になるということはない。

 なぜそういうことになるのか? それは彼が太陽の暑さに抵抗力をつけたからだ。

 人間が多くの薬を使うようになると、いっそう多くの病気が生まれてくるのはそのためだ。人間の抵抗力が衰えていくからだ。身の回りを便利にすればするほど、いっそう不便を感じるようになる。あれこれの対策を講じるほど、さらに多くの困難に直面するようになる。どんな対策も外面的なものにならざるをえないから、内なる強さを鍛える必要が感じられなくなり、その機会が失われてゆく。内なる強さが使われないようになると、しまいにそれはすっかり消えうせてしまう。

 スーフィーの神秘家、バヤジッドはいつも裸で砂漠を旅していた。人びとは彼がかんかん照りの下で裸で歩いているのをよく見かけた。また夜になると砂漠はとても寒くなり、凍りつくほどになる。人びとはこれほど厳しい環境なのに、どうして身を守るものなしで平気でいられるのか、と彼に尋ねた。彼はこう言った。「自分の顔に聞いてごらん。顔の皮膚だって手や脚や胸の皮膚と同じだが、寒かろうと暑かろうと、顔の皮膚がそれに耐えられないことはない。唯一のちがいは顔がいつもむき出しになっていることであり、だから顔にはもっと抵抗力がある。私は全身の皮膚を顔と同じように外気にさらしている。だから私は寒さにも暑さにも苦しむことがない」

 サニヤシンが自分を守る外面的な手段を講じないでいると、彼の内なる忍耐力はだんだんと強くなっていく。これに関して、もうひとつ理解しておくべきことがあるが、それが東洋と西洋の根本的なちがいでもある。西洋は外側にあらゆる設備をつくったので、彼らは内側ではひじょうに弱くなり、力を失ってしまった。西洋人はまさに賞賛に値する保護の仕組みをつくりだした。砂漠でもエアー・コンディションを効かせることができる。感染症にかかっても、数時間のうちには薬がその部分に到達して、病気と闘ってくれる。あるタイプのバクテリアが肉体に侵入すると、それと闘う抗体が投与される。

 こうして西洋はあらゆる手段を講じてきたが、その内なる強さはどんどん失われていった。それは日々さらに弱くなっていく。

 東洋はそれとは異なる方法を試みてきたが、それはいかなる外側の助けにも頼るものではなく、人間の内なる強さを利用するものだった。これによって東洋は内側では強くなったけれど、外側ではいっそう貧しく怠惰になってしまった。外側の貧しさは目に見えるが、内なる富は目には見えない。西洋から来た人はこの貧しさを見て、なんて東洋は惨めなのだろうと言う。なぜなら、内側のものは目には見えないからだ。東洋は個人の意識を鍛えて目覚めさせることに努力を注いできたから、あなたはどんな状況下でも、いかなる困難にも立ち向かうことができる。だが、西洋は外側のものをコントロールしてきたので、個人はまったく闘わなくてもいいようになった。しかし、闘わない人は少しずつ逆境に直面する能力を失ってゆく。自分の強さを保ちたいなら、闘争と面と向かわなければならない。それはどのような
種類の力を身に付けたいのかによってちがう。内なる力を育てたいなら、この賢者の言っていることが正しい。すなわち、いかなる状況下にあっても、自分の決意を守るということ。そうしてあらゆる困難に直面するなら――安全ではないものに、どのような計画も準備もないままに――ますます内側が強くなって、意識が困難を乗り越えるようになり、困難ももはや困難ではなくなる。

 危険こそサニヤシンの住み処だ……。できるならこのことを理解してほしい。他人との闘争は暴力的だが、暴力的ではない内なる摩擦がある。一方で他人を支配しようとする闘いがある。だが、もっと別の種類の闘争があり、あなたはそれによって自分の中心に据わるようになり、世界になにが起きても中心から揺れ動かなくなる――それが宗教性だ。

 賢者は言う、「サニヤシンは不安定さの中に、一日二十四時間の内なる摩擦の中に生きる」と。だが、これは他人との軋轢ではない。彼は不安定さの中に生き、いかなる計画も立てない。彼はなにひとつ計画を立てずに、不確かな未来の中に足を踏み入れてゆく。

 朝、目を覚ましたとき、その日がどんな日になるのかわからないが、彼はそれを精いっぱい生きる。夜が来ても、彼は夜がなにをもたらしてくれるのか知らない、それもまた生きる。彼は瞬間から瞬間を生きる。瞬間から瞬間を生きたなら、安全なものはなくなってしまうことは確かだ。

あなたは未来への対策を講じながら生きている。不安を少なくするようにあらかじめ計画を立てている。あらかじめ計画を立てて、することを決め、どのようにするかも決めておいたら、明日には不安なことがより少なくなることは確かだ。明日、未知の中に入らねばならないとしたら、いったいどうなるだろうか? 底なしの海に出て行くとしたら、なにが起きても不思議はなかろう。嵐の予想を立てられない海に乗り出すときには、なにが起きるのかだれにも言うことはできない。

サニヤシンは人生をそのように生きる――なんの準備もしないで。なぜだろう? どうして安全ではないほうがいいのか? サニヤシンはこの時々刻々の絶えざる摩擦が自分を研ぎ澄ますための、純化するためのプロセスであることを知っている。この努力によって、あなたの個性がより純粋になって、知性がいっそう研ぎ澄まされる。この摩擦は他人とのあいだでなく、自分とのあいだに起こる。それは自分の無意識の習慣との摩擦だ。だから、この内なる摩擦から不幸が生まれたり、苦しみが生じたりすることはない。

サニヤシンは危険を避けることなく、危険への気づきとともに生きてゆく。危険が彼の住み処であり、彼の休憩所だ。危険を「拠り所」と言うのはいかにも矛盾した言い方のように聞こえるかもしれない。危険はサニヤシンの住み処であり、寝床であり、休憩所であるとは、すなわち、彼はいっさい危険を拒もうとはしないし、それを避けようとはしないということだ。

このような姿勢によって、危険は危険なものではなくなり、彼の人生の自然な流れの一部となる。

(OSHO Times International日本版99号掲載/発行Osho Japan)
2004 OSHO International Foundation